沖繩が日本に還った日 証言ドキュメント2

  • 12 年前
かつて日本国憲法にあこがれ、日の丸を振って本土復帰運動をしていた知花昌一さん。しかし、基地存続の失望から、国体で日の丸の旗を焼き捨てた。基地存続のままの沖繩返還に抗議が沖繩全土をおおった時、抗議も祝賀式典も行われなかった島、伊江島。沖縄の人々が納得できる本土復帰を目指した、平良亀之助さん。フォークシンガー佐渡山豊さん。本土復帰記念コイン。米軍兵士によるひき逃げ事件の裁判。

沖縄は「復帰」を切望する盛り上がりを見せ、そのうち、「復帰」前後から、米軍基地がそのまま残されることが明らかとなりその声が失望に変わっていったのだとする。佐藤栄作首相が「復帰」という成果を誇らしげにアピールする一方、屋良朝苗(初代知事)は、基地のない沖縄を求めた建議書を日本政府に門前払いされ、怒りの露わにしていた。そして、復帰記念式典が行われた那覇市民会館の隣にある与儀公園では、土砂降りの中、激しい反対運動が繰り広げられた。行政側に身を置いた方々も、身を切られるような思いであった。

経済的な打撃は大きいものだった。基地が残る一方で基地労働者は大量解雇され、ドルから円への通貨切り変えで資産価値が目減りし、コメの輸入禁止によって食べられるコメが「古米」「古古米」となり、住民たちは引き裂かれた。

元「ひめゆり学徒」の島袋淑子さんや、1987年に読谷平和の森球場で行われた沖縄国体において日の丸を燃やした知花昌一さん、アイデンティティを日本ではなく沖縄に求める佐渡山豊さん(インタビューは「どぅたっち」かな?)、沖縄県教職員組合の先生たちが登場し、その実状を口々に語っている。特に、沖縄にとって、平和憲法の受容は自らの意志として、その意義を捉え直してのものだったということが印象的だ。

さまざまな立場や考えの声を紹介する、しかし、基地経済への依存度が年々小さいものとなり、いまでは5%程度に過ぎないことは言及されていない。まるで、現在でも基地を残してほしい立場と出て行ってほしい立場とが同様に存在するような印象を抱かせている。40年前と現在とのつなぎがいかにも恣意的。バランスをとったというのか。

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