Skip to playerSkip to main contentSkip to footer
  • yesterday

Category

📺
TV
Transcript
00:00偶然の勝利はあれども、敗北は全て必然。
00:07日本の歴史を彩った偉人たちは、いかにして敗れていったのか。
00:13その裏には、どんな原因と過ちがあったのか。
00:19今回は、天の道を極め五輪の書を記した、
00:23兵法家宮本武蔵の敗北を紐解きます。
00:28名だたる剣豪たちに勝負を挑み、60回を超える決闘で生涯無敗を誇った天才。
00:37長い修行の末、剣の極意を手にした武蔵が、天下一位の道に終止符を打った理由とは。
00:47敗れし者たちの失敗から学ぶ人生哲学。
01:23刀一つで身を立てる剣豪というような人もたくさんいた室町時代から戦国時代にかけての剣豪といえば、塚原牧伝、上泉信綱、柳生宗義といったあたりが有名ですよね。
01:38恐らくですね剣豪は剣豪なりのですねそういった独自のネットワークがあったようなんですねそうですかじゃあいわゆるまあ武将とはまたちょっと違った世界がまあそこにはあるということなんですねそうだったみたいなんですよええさあその中でも剣豪と聞けば誰もがこの人を思い出すかもしれません
02:08武蔵といえば岩流地羽根の小次郎との戦いあとは二刀流といろいろなエピソードがありますけどなんかどこからどこまでがフィクションなのかちょっと分からないなという部分もあるんですよね。やはり宮本武蔵のイメージを形作ったのも小説なんですね。
02:27吉川英二さんという方が書いた宮本武蔵という小説によってですね相当そのイメージが形作られたということがあるんですよね。
02:35しかもあの漫画のバガボンドとか大河ドラマの武蔵というものが吉川英二さんの原作で作られたというそういった経緯もありますのでそれによってですね二次創作の部分まで同じキャラクターになってしまいそのキャラクターが固定化されていったということなんですね。
02:51伊藤さんの吉川英二さんの大ファンでいらっしゃるということで吉川英二さんきっかけでこの歴史小説の世界に入られたんですよね。
03:00実はそうなんですよね。昨年からの吉川英二友の会という会があってそこの会長に祭り上げられているんですね。
03:08伊藤さん。
03:09私がですね。
03:11この吉川作品というのは非常に長くてなかなかね世持ちと今いないんですけどその魅力をいかに後世に伝えていくかというのをこれからの課題にしていきたいんですよね。
03:21ではの実際の武蔵というのは私たちがイメージしているその作品の中の武蔵とはかなりギャップがあるんですかね。
03:29難しいところですよね。武蔵の実像については謎が多くて今でも相まいもことしているというのが実情だと思います。
03:36今回そういった謎を起き武蔵にどこまで迫れるか。
03:40そういった武蔵がですね。なりたい自分になんでなれなかったのか。そのあたりに迫っていきたいと思っています。
03:45さあ今回はそんな宮本武蔵の敗北をひもときながら明日を生きるための教訓を探していきますまずは宮本武蔵の人生を振り返りますこちらをご覧ください
03:5760回以上の決闘で一度も負けなし天下無双の剣豪として知られる宮本武蔵は1582年現在の兵庫県にあたる張間の国で生まれたとされ
04:14兵庫県新兵庫県新兵庫県新兵庫県の養子となって育てられます。
04:2013歳で剣術家の有馬貴兵に人生初の勝負を挑み勝利して
04:26武蔵は以来下向きに剣の道を追求し
04:301600年の関ヨ原の戦いでは東軍に参加するなど実戦を重ねてもいたようです
04:40京都へ移り足利将軍家の剣術師範を務めた名門吉岡一門との勝負に全勝して名を挙げた武蔵は
04:50自ら天下一の看板を掲げます
04:56その後も武蔵修行で各地を巡りながら連戦連勝を重ね
05:011610年には関門海峡に浮かぶ小さな島で
05:06細川家の剣術師範であり
05:08西国一と名高い元竜小次郎との決闘に挑みます
05:13かの有名な元竜島の戦いです
05:19この決闘に勝利した武蔵は
05:23大阪の陣にも参加して剣の腕を捕ります
05:26やがて張馬に戻った武蔵は
05:32赤市藩小笠原家に招かれ
05:35城下町の整備を担当するなど
05:38多彩な力を発揮しますが
05:40そこにとどまることなく
05:43天下一の兵法を広めるため
05:46諸国を巡り続けました
05:49しかし天下を治める徳川家では
05:53既に野牛の新陰流兵法が
05:57天下の流儀として確立されており
06:00武蔵の入り込む余地はありません
06:021638年57歳になった武蔵は
06:08養子の伊織とともに
06:11島原天草の乱で腕を振るいます
06:13この戦いは戦のない天下大平を告げる
06:19最後の戦いでもありました
06:21天下一の兵法を広めるという夢が
06:27継い得た武蔵は
06:281640年
06:30細川家の脚分として生きる道を選びます
06:34武蔵敗北の瞬間です
06:39その後人生の集大成である兵法の極意をまとめた五輪の書を出筆しました
06:48なぜ武蔵は標本家として日本の頂点に立つことができなかったのか今回は孤高の剣豪宮本武蔵の敗北に迫ります
07:01さあここで武蔵の人生の主な出来事を振り返っていきます
07:06武蔵が生まれた1582年
07:10諸説あるということですけれども
07:12戦国時代もかなり末期ですよね
07:16当時の社会の状況というのは
07:18どんなものだったんでしょうか
07:20はいこれまではあの武蔵が生まれた年というのは天正12年1584年というのは通説だったんですけど最近あの宮本家経図というものをもとにですね天正10年1582年という説が有力になってきてるんですね
07:35でまぁこの時代もうその天正10年といえばもう中西さんもお別れだと思うんですけど本能寺の変なあった年ということで社会情勢としてはですね
07:43貨幣経済が浸透し始めて県南豪華な桃山文化が花開うわけですよね
07:49初代名の財政状況も余裕があったということで
07:52剣術指南役を公録で召しかかえるということが非常に流行っていたという時代で
07:57武蔵は若い頃というか前半生がですね
08:00いかに自分を高く売りつけるかに執着していたと思いますね
08:03そうですか
08:04そんな時代に武蔵生涯60回以上も決闘して
08:08しかも一度も負けなかったというお話でしたけれども
08:11でも逆によくそれだけ戦う相手がいたなというのも思うんですよね
08:16はい
08:16この時代は大名家の映画聖水が激しくてですね
08:20世の中は浪人があふれ始めていたんですね
08:23でまぁ浪人たちはですね
08:24もう大名家に主観したりと食べていけないということもあって
08:28そのために手っ取り早いのが武芸の腕だったわけですよね
08:31ですから浪人たちは自分の名を高めるために武者修行と称して
08:36各地を旅して同じような標法と戦っていったわけです
08:40時代の転換期に剣の道をがむしゃらに追求し諸国を巡って修行を積んだ宮本武蔵は何を求めて勝負に挑んでいたのでしょうか
08:51こちらをご覧ください
08:53歴史上の記録が少なく謎に満ちた武蔵の生涯
08:59確かな資料は武蔵の養子伊織が立てた秘文の文字と
09:07武蔵自身の著書五輪の書のわずかな記述しかありません
09:12それでも武蔵の人生を知る手がかりはあります
09:19武蔵が生み出した剣術です
09:25鎌倉に道場を開く赤羽さんは武蔵が若い頃に確立し終わりに伝わった流派
09:36延命流を継承する剣術家で大学で哲学を教える学者でもあります
09:42武蔵は武術を体で考えた日本で最初の人だと思います
09:51五輪の書を見ても非常に合理的な価値観が書かれています
09:55武蔵は何を目指していたのか
10:00歴史と現実をもとに探ってみましょう
10:09武蔵が晩年を過ごした熊本にある
10:11島田美術館には
10:13武蔵に関する貴重な品々が展示されています
10:17その中に少年時代の武蔵を想像して描いた肖像画があります
10:32武蔵の実家は秀吉に敗れて農民となった一族で
10:36武士の血筋を残すために
10:39武蔵を養子に出したとも言われています
10:42熊本で武蔵の生涯を研究する福田さんはこう話します
10:49神面無二という兵法者のうちに養子に出るんですね
10:56鍛えられるわけですね
10:57養父となった神面宮本無二は
11:03武術の達人で足利将軍の標法師範
11:07吉岡健坊との試合に勝ち
11:10天下に並ぶもののない標実者という名声を得ていました
11:15武蔵のやっぱり目標というのは
11:19お父さんを超えて自分は天下一の剣豪になるんだということが
11:24少年の自分の夢だったんじゃないかなと思います
11:28天下一の剣術家になる
11:33武蔵はわずか13歳の時
11:37有馬貴平という有名な剣術家に挑み
11:41たちまち打ち勝ったといいます
11:45その剣術には天性の素質があったようです
11:5319歳の時には天下分け目の関原の戦いにも参加し
11:59黒田官兵衛に仕えた父とともに
12:03防軍の一員として九州で戦ったと言われています
12:07ところが武蔵は父のように
12:13黒田家の家臣として治ることはありませんでした
12:1621歳の時武蔵は京都に出て
12:22強い相手に勝負を挑む武蔵修行を始めたのです
12:26この修行の目的について
12:30歴史学者の渡辺大門さんに聞きました
12:35剣術を高める
12:37そういうふうな意味での修行もあったかもしれませんけども
12:41むしろ諸国を徘徊して
12:43自分の腕前を披露してですね
12:46それを歯間に結びつけようと
12:49そういうふうな一面もあったんじゃないかなというふうに思います
12:53武蔵が京都で挑んだのは
12:57父ムニが試合で破った名門吉岡一門です
13:02これを倒せば
13:04父と並んで天下一を名乗ることができます
13:07武蔵は当主の吉岡兄弟と立ち合い
13:14共に一撃で倒します
13:17敗れた吉岡一門は計略を持ち
13:23京都の外れにある一条陣に
13:26一門を総動員して増し伏せます
13:29すると武蔵はたった一人で現れ
13:36数十人の敵を散り散りにさせて破り
13:39人々を簡単させたといいます
13:42武蔵の自責を刻んだ秘文にも記されているこの戦い
13:50あまりに鮮やかな勝ちぶりを疑い
13:53武芸団や漫画では実は負けていたとするものもあります
13:59しかし赤羽さんの道場には
14:04その時の勝利の剣術が伝わっているといいます
14:08武蔵は多くの場合大抵一撃で倒しています
14:14直通の暗いといいます
14:16武蔵の剣術の極意直通の暗い
14:22立ち合ってもどこを撃つと決めず
14:25相手の動きを読んで隙を見出し
14:28瞬時に反応して斬ります
14:31武蔵は大勢の敵を相手に勝つ方法も伝えています
15:00これがその戦い方を詳しく記した兵法書
15:07平道教です
15:09武蔵はこれをもとに武術の流派
15:13延命流を起こしました
15:15貫末には天下一と誇らしく署名しています
15:21その後も武蔵は諸国をめぐって60余りの勝負に挑み
15:29一度も負けなかったといいます
15:32そして武蔵の最後の決闘といわれるのが
15:38有名な岩流島の決闘でした
15:41宮本武蔵最後の決闘
16:00宮本武蔵最後の決闘といわれる
16:04岩流島の決闘
16:06相手は最極一の達人
16:10岩流小次郎です
16:12小次郎は物星竿と呼ばれる長い刀で
16:17つばめ返しという必殺の技を使うことで
16:20知られていました
16:21一方武蔵は木刀一本で立ち向かいます
16:28武蔵は一撃で小次郎を破りました
16:37武蔵はなぜ勝てたのか
16:43剣術家の赤羽さんはこう話します
16:48武蔵が勝った松陰の第一は
16:52小次郎の物星竿より長い木刀を用意したことで
16:55小次郎のつばめ返しは長い刀を振り下ろして相手を下がらせ
17:03返す刀で切り上げるという必殺技でした
17:07そこで武蔵は小次郎の刀よりもさらに長い木刀を用意します
17:15それを後ろに構え
17:20小次郎に長さが見えないようにしました
17:23こうして武蔵は相手の刀を超える一撃を
17:29くらわすことができたといいます
17:31戦国の世では勝つために敵を欺むことは当たり前でした
17:41武蔵は小次郎との戦いでも
17:48戦国時代のやり方で策を尽くして倒します
17:52しかし武蔵はこの勝利に満足していませんでした
17:58武蔵は五輪の書にはこう記しています
18:01兵法を極めて勝ったのではない
18:06生まれつき器用で天の道理を離れなかったためか
18:11他の流派に不足があったためなのか
18:14赤羽さんはこの落胆についてある説を唱えています
18:23実は武蔵は一撃で倒したのではなく
18:29小次郎を撃った後に
18:31つばめ返しの太刀をかわし
18:33さらにもう一撃を加えてしまった
18:35それが使命傷になったのではないかというのです
18:40自分が倒した相手を見ていれば
18:43もうこれは立ち上がれないということがわかったはずです
18:46ただ二の太刀をかわせばよかっただけですから
18:49それをわからずに二の太刀をふるってしまった
18:52武蔵の最大の失敗というのは
18:54元流島だと私は思っています
18:57相手は倒したものの
19:01その勝利は自分の目指す天下一の現実とは言えないものでした
19:07武蔵はこれを境に武者修行をやめ
19:13より深い標法の極意を得ようと鍛錬を始めます
19:1720代の終わりのことでした
19:23しかし関小原の戦いからすでに10年余り
19:31武士に戦いが求められる理大は
19:34もうすぐ終わろうとしていたのです
19:37いや武蔵の人生のクライマックスともいえそうな小次郎との戦いが最大の失敗だったかもしれないというのは面白いですね
19:50今のVTR見てますと1の太刀で倒せず2の太刀をふるってしまったという失敗だったのではないかという
19:57関小原の戦いでは今お話にもありましたけど
20:01武蔵黒田家の下で戦っていたということですが
20:05ここで正式な歌詞になるという選択肢はなかったんですかね
20:09ただ恐らくですね武蔵としてはもっと自分の価値を高めるためにですね
20:13上京して天下の名だたる標高者と勝負していこうというような思いがあったんではないかなと思ったんですよね
20:20この岩龍島の戦いがなぜここがそのターニングポイントになったと思われますか
20:26この岩龍孤次郎というのはかなり有名だった人みたいで
20:30その孤次郎に勝ったんで
20:32もうここで天下一条は私は証明したということで
20:35もうやはりそれ以下の相手と勝負しても意味がないなというような気持ちになったらしいんですよね
20:40またちょうど乱世から平和の世の中になってきている
20:45そういう過渡期でしたんでね
20:47公の場で堂々と勝負できる雰囲気ではなくなったわけです
20:50つまり堅実勝負の時代が終わったということが言えると思いますよね
20:54自分の道を突き進む生き方は
20:58収入や身分などが安定した人生とは正反対
21:03あとは時の風向きを見ながら
21:07それをどこまで貫くかですね
21:10岩龍島の戦いを経て
21:15天下一の標榜下への道をひたむきに歩き続ける
21:19剣豪宮本武蔵
21:20しかしその道の遥か先には
21:23すでに天下に手をかけた
21:26一人の剣豪がいました
21:27こちらをご覧ください
21:2920代の終わりに諸国での決闘に区切りをつけ
21:35兵法の極意を求めて新たな鍛錬を始めた武蔵は
21:40戦国時代の幕引きとなった大合戦
21:44大阪夏の陣に姿を現します
21:47徳川方に同人として参加したとみられています
21:52もう大戦争が終わったと突発的に大阪の陣が始まった
21:58正規でたくさんの家臣を雇うとこれはもう経済的に大変ですよね
22:03ですからもう一時的にアルバイトとそれで兵を補ったというのが実情だったと思いますね
22:10武蔵はそれに応じたということになると思います
22:14大阪の陣にはもう一人剣術の達人がいました
22:20新陰流兵法の党首 野牛宗則です
22:24宗則は家康から家光まで三代の将軍に仕え
22:34兵法指南を務めるという老人の武蔵とは全く違う人生を歩みました
22:40宗則は家康の意を汲み
22:45戦のない平和な時代の憲法 活人権を生み出します
22:50その思想は人を殺す権は悪いものであり
22:57悪人を斬る時以外武士は権を使ってはならないというものでした
23:03新陰流の憲法はあくまでも相手が動くのを増し
23:09かかってきた時に一刀の下に倒します
23:14こちらからは決して攻めず 悪意を持った者だけを斬る
23:23新陰流は太平の世の憲法として全国に広まります
23:30一方武蔵の剣術は積極的に攻めて斬る 戦国の棋風を引き継ぐ勝つための剣でした
23:39武蔵はその極意を求めて鍛錬を重ねます
23:45大阪夏の陣の2年後 武蔵は生まれ故郷の張馬に姿を現しました
23:58その頃張馬では姫路に本田家 明石に小笠原家と
24:04徳川不代の大名が入り 戸様が多い西国の抑えを任されていました
24:14姫路で道場を開いていた武蔵は 達人ぶりが知れ渡り 士官を打診されます
24:21しかし武蔵は家臣ではなく客分として姫路と明石二つの藩に関わる道を選びます
24:33客分というのはですね 食卓職員みたいな感じですかね
24:40還元料といいまして 給与的なものというのが一応支払うというふうな形ですね
24:47客分となった武蔵は 明石の城下町の町割りを手掛けるなど
24:54県術以外の分野でも活躍の幅を広げます
24:58庭園の設計や絵画などの芸術活動も この頃から始め
25:07茶人や学者などの文化人とも 交流したとみられています
25:16武蔵はこうした活動を通して 剣術の極意がさまざまな分野にも通じることを見出します
25:23兵法の理に任せて 諸芸諸能の道となせば
25:30万事において われに師匠なし
25:32一方で実の兄の子といわれる伊織を養子に迎え
25:38明石藩小笠原家に士官させました
25:42武蔵は幼い伊織には剣術を教えませんでした
25:47剣術が重要でなくなる時代を 見越していたのだと考えられます
25:59戦のない時代になってきましたから
26:03組織をまとめる力とか 国を治め 民を養うとか
26:08そういうものが大事なんだと それを教えたと思うんです
26:13伊織は若くして 小笠原家の家道にまで出世します
26:18しかし武蔵自身は 勝つための剣術を求めて
26:26来る日も来る日も 鍛錬を続けます
26:29そして脚文となって およそ15年
26:36武蔵はようやく 極意に達したといいます
26:41兵法の道をつかんだ武蔵は これを天下に広めるため
26:47パリまでの生活を捨てて 旅に出ました
26:51武蔵が50歳を過ぎて始めた 第二の武者修行でした
26:57武蔵は まず徳川御三家の一つで
27:12初代名の筆頭である 尾張藩に出向きます
27:18野牛新陰流を極めていた藩主の 徳川義直に
27:23自ら得得した兵法を認めてもらうためでした
27:28武蔵は吉直の前で 御前試合に臨みます
27:33この時相手に岸先をつけたまま 一投も振らせなかったといいます
27:41まさに極意を生かした勝ち方でした
27:47吉直は武蔵を名人と認め 延命流に多くの門弟が集まります
27:58しかし平和な時代の憲法新陰流を 正統とする尾張藩は
28:07武蔵の勝つための憲法を 決して認めませんでした
28:15武蔵は3年の滞在の後に 尾張を去り江戸に向かいます
28:21三代将軍家光の知性も すでに13年
28:33三金交代の制度が始まり
28:35江戸では諸国の大名に 出会う機会がありました
28:43武蔵は流派の名前を 二投一流 後の二天一流とし
28:49極意を伝え始めます
28:52しかし 太平の世において
28:54武蔵の剣が 受け入れられる余地は
28:57どこにもありませんでした
29:03そのころ 柳生宗典は
29:05大和に領地を与えられ 一万石の大名となります
29:11武術家として 大名に出世した例は
29:14後にも先にも 八木受けの他にありません
29:20自らの極意を 天下に広められずにもがく武蔵は
29:25久々に 戦に参加する機会を得ます
29:28キリシタンへの 弾圧と圧勢に対抗して
29:41農民や 浪人たちが 放棄した
29:43島原天草の乱
29:46武蔵は かつて 脚文となっていた
29:49小笠原家の 一員として
29:51反乱軍鎮圧のために 戦地に赴きました
29:56幕府軍は 総勢12万余りの 大軍勢で
30:033ヶ月の間 攻め落とせず
30:06苦戦の末に 4万足らずの 一機勢を全滅させます
30:10大阪の陣から25年 武蔵は戦い方を忘れた武士の姿に愕然としました
30:23今 世の中に 標法の道を 確かにわきまえた武士はいない
30:31たとえ不器用でも 武士は真実の道を得るよう 努めるべきだ
30:37武蔵は 標法の道を広めるべく またもや旅に出たのです
30:44武蔵は上方に そして江戸に赴きます
30:58戦の可能性はなくなったものの 文武両道の名のもとに
31:04剣術の稽古は 武士の務めとなっていました
31:07そこで 各流派は 武術の型を増やし
31:13難しい技の習得を目玉に 文人を集めていました
31:18この風潮を 武蔵は 強く批判します
31:22武芸を 生計の手段として 華やかな技巧を飾って売り物にするのは
31:29まことの道ではない
31:31しかし 戦のない時代の武士にとって
31:37化すための標法は もはや時代遅れの産物です
31:42この時 武蔵は還暦目前
31:46老朗に さし掛かっていました
31:50そして
31:51九州の遊藩 熊本藩細川家
32:03戸様ながら 徳川の信頼が厚い 細川忠俊が入り
32:10実力のある戸様大名が多い 九州の監修を任されていました
32:15この熊本に 武蔵は姿を現します
32:22この時 熊本藩の過労に宛てた 武蔵直筆の手紙が
32:281994年に発見されました
32:33今 熊本に参りましたことを ご不審にお思いかもしれません
32:41少し 用の義がございますので お尋ねいたしたい
32:45昴生の電気では行き場がなくなった武蔵が生活に困って細川に身を寄せたと伝えています
32:59自分も老協に入ってですね今度はもう自分の終わり方っていうことも考えてたと思いますからそういう襲名の地として細川家の熊本を選んだろうと
33:13夢を追い続けてきた武蔵は 人生をかけた武蔵修行についに死ぬ死符を打ちます
33:23無念の敗北でした
33:27野球は当時 全国に広まっていました
33:32しかし 武蔵の愛媛流2.1流というのは それほど広まっておりません
33:37展開式になることは 結局はできなかったわけです
33:40少年時代から勝利を求め天下一を目指し続けた武蔵は戦のない平和な時代の中でいつしか生きる道を失っていったのです
33:59これだけ剣の腕があっても生き方が本当に不器用な人なんだなって不器用さゆえに何か自分が本当に望んでいるものに手が届かなかったというところが何とも言えないなという気がしますね。
34:15私は結構器用だったんじゃないかなという気がするんですよね。
34:20ここで歴史作家ならではの視点で歴史の裏側を考察する伊藤潤の見解ポイント。
34:30実は武蔵が剣術以外に手腕を発揮した唯一の例がですね明石城下の待ち割りというのがあるんですよね。
34:37つまり実務面でそういった業績を上げてるんですね。
34:42その頃の城下っていうのは敵が攻めてきた時に重要な役割を果たしてたんですよね。
34:47つまり防御拠点としてね。
34:49ですから武蔵っていうのは軍事知識がある上、当然いろんな大きな戦いにも出てますからね。
34:54諸国を見て回ったという武蔵修行もしてますからね。
34:57ですから地形や知性を読むことに長けていて、しかも春馬の国にかなり縁の深いというか出身地ですから、
35:05そうすると全ての条件がそろっているのは武蔵しかいなかったということで武蔵新白羽の矢が立ったわけなんです。
35:12そうですか、でも武蔵って県の道を極めたいという気持ちが強くてプライドも高そうだなと思うのでいや、待ち割りなんて自分が本当にしたいことじゃないよってなりそうだなという気もするんですけどね。
35:25それも固定観念だと思うんですよね。恐らく武蔵っていうのはコミュニケーション能力とか実務能力にも長けていたんではないかなということで剣術一筋ではない才能の持ち主だったんではないかなと私は思ってるんですね。そうかもしれないですよね。どうなんでしょう、武蔵自身はここまでいけば夢がかなったぞっていうそのゴールを自分でちゃんと具体的に想定していたと思われますか。
35:47もちろん人間ですからね目標は流動的だったと思うんですよ若い頃はどこかの大名家に皇陸で士官してその剣術師団役として食べていこうと思ってたと思うんですよねところがやっぱり年を取るに従って名古屋や江戸を拠点として自らの兵法を広く根付かせたいというような思いが強くなってきたんじゃないかなと。
36:10自分が目指すものが時代遅れだと感じた時にそこで意地を張り続けるか別の道を選ぶのかが運命の別れ目さてあなたはどちらですか天下一の道を諦め細川家の脚文となった武蔵は自らがたどり着いた極意を五輪の書に記しました。
36:38武蔵は後世に何を伝えようとしていたのでしょうかこちらをご覧ください
36:43行き場がなくなり熊本藩細川家に身を寄せたと言われてきた武蔵。
36:53しかし実際は藩主細川忠敏の下で手厚い待遇を受けていたことが分かってきました。
37:032022年晩年の武蔵を知る新たな手がかりが発見されたのです。
37:13熊本大学衛生文庫研究センター長の稲葉さんに聞きました。
37:20これは細川家の奉行書の記録ですね。
37:25細川忠敏が武士が民を治めるというのは一体どういうことなのか。
37:31それを総括するための問答相手の4人のうちの1人に宮本武蔵が選ばれて指名されていたという。
37:39剣の技を教えるというような役割以上の、そうした思想的な役割というのを期待された人物であったと。
37:52武蔵は熊本城の近くに屋敷を与えられ、自らの標本を思想にまで高めようとしていました。
38:01藩主忠敏は熊本の山合いにある山賀温泉に武蔵ら一流の文化人を集め、政治の在り方を語り合ったのです。
38:14武術が得意な忠敏は武蔵とたびたび手合わせをして、一度も勝てなかったといいます。
38:24年の近い2人は戦を知る最後の世代として強く結びついたのです。
38:31しかし、忠敏はわずか1年後に病に倒れ、この世を去ります。
38:39名優とも呼べる主君を失った武蔵は山中の洞窟、霊岸堂に籠り、自らが掴んだ標本の極意を記し始めました。
38:54それが今も読み続けられている五輪の書です。
39:09武蔵は知・水・火・風・空の五感に分けて標本の正しい道を基礎から解き起こし、それが国を治め、民を養う武士に欠かせない心得であると伝えます。
39:281対1での立ち会いの心得や、戦場における勝負の機微などが書かれた内容は、後に武士像の原型となっていきます。
39:43武蔵の思想を次世代の若い、自分の息子の世代に伝えてほしいという。
39:56執筆の途中で病に侵された武蔵は、やむなく浄化に移り、最後の力を振り絞って成功を重ねます。
40:06そして、力尽きて筆を置き、弟子に渡して間もなく息を引き取ったといいます。
40:1864年の生涯でした。
40:21五輪の書は、その後、様々な言語に翻訳され、日本人の考え方をするだけでなく、世界のビジネスリーダーたちのバイブルとして、今なお愛読されています。
40:37経営の神様の松下幸之助さんが、宮本武蔵、とても尊敬しておりますよね。
40:48あの武蔵には先生はいないんや、自分で問題を解決する。
40:55武蔵の良さというのは、私はそこにあると思うんですね。
40:57天下一の夢を手にすることができなかった武蔵ですが生涯をかけて探究した兵法の極意は時代を超えて世界中の人々の道しるべとなっています。
41:15時代のニーズにうまく合わせられなかった武蔵が残した五輪の書が逆に今の現代にも通用しているというところがいや、どうしてなんだろうなとちょっと思うんですよね。
41:34今、外国語版もたくさんあるということを武蔵の中で言ってましたけど、非常に哲学的なことや全文道的なことというような、そういうような言われ方をしていますよね。
41:46ただ基本的にはですね、この憲法というのは、つまり剣術というのは心で理解しないと体技術を覚えないということが言いたいわけなんです。
41:55つまり真偽対一致した境地に至るには先端万連って言うんですけど、まあ鍛錬に次ぐ鍛錬しかないということを武蔵は言いたかったわけなんですよね。
42:06自分に厳しいな。
42:07そう、自分に厳しいですよね。
42:09つまり武蔵は自ら標高の道から逸脱するつもりはなくてですね、一標高かというですね、ある意味謙虚な立場からこの五輪の書を書いたんですね。
42:20自分の専門領域はやはり剣術だというところに帰っていった原点回帰したというところが少しちょっと武蔵らしいなというか感動的な部分ですよね。
42:30確かに名誉欲とか剣術以外のことでも注目を浴びたいとかっていう何かそういう横縞な気持ちがなくてすごくピュアだったわけですよね。
42:40最後のときはそうなったわけですよね。ですから私なんかもね本当に自分の専門領域いわゆるキャリアパスというのをしっかり守っていくということが大事だなと。さあ改めて武蔵の敗北から私たちが学ぶべき人生の教訓をお願いします。
42:55時代にマッチしたスタイルに変化させるべしですね。武蔵の思想というのは江戸時代を通じて重んじられていたもののどうしても時代遅れの勘は否めず次第にその流派も衰えていってしまったということなんですね。
43:11武蔵という存在が偉大すぎたが故にですねその弟子たちが武蔵の思想を変化させていくことを好まずですね2つの流派ともに時代にミスマッチな憲法になっていったということが言えると思うんですよね。
43:24つまり現代で言えば偉大すぎて創業者を持つ企業が創業者の死とともにですね衰退していくというのはよくあることなんですけどいわゆる創業者のビジョンや思想を恐れ多くてアップデートできないからということが言えると思うんですよね。
43:39ですからいかに創業者が偉大でも時代や環境の変化に即応していかないと企業そのものの迷惑感を保てなくなるということ。
43:48それをですねやはり武蔵の生き方から学んでほしいなと思いますよね。
43:52どんな極意もかたくなに守り続けるのではなくそれをどう使いこなして進化させるかがポイント。
44:02現状維持は衰退の始まりですからね。
44:06これぞ宮本武蔵の敗北から学ぶ教訓です武将たちの敗北というとこう戦とかあとは家が続いたとか滅亡したとかそういうところに注目が集まりますけども武蔵の敗北っていうとなんかすごくこうパーソナルなことだったのでなんか全然違うビジョンが見えてとっても面白かったです。
44:33いや面白かったですよね。やはり武蔵の考えていること。当然その中には試行錯誤もしてますしね。
44:38そういった意味で言うとまさに武蔵の人生そのものからですね我々っていうのは学べるなっていうのを痛感しますね。
44:45そうですね。斉藤さん今日もありがとうございました。
44:48ありがとうございました。
44:50偉人敗北からの教訓それではまた次回お会いしましょう。
45:02偉人敗北からの教訓それではまた次回お会いしましょう。

Recommended