100分de名著 司馬遼太郎“覇王の家” 1~4
■司馬遼太郎“覇王の家” (1)「三河かたぎ」が生んだ能力
家康が歴史の表舞台へと躍り出ることができたのはなぜか。司馬は「たったひとつ、かれが三河に生まれた」ことだと述べる。それは一体どういう意味なのか?
家康を生んだ三河には中世的な深い人間的紐帯が色濃く残る。若き日、人質になる事を余儀なくされた家康。「苦難を共にする」という思いが、残された家臣団の更なる団結を生んだ。信玄のような戦術的天才も、信長のような俊敏な外交感覚もなかった家康だったが、こうした紐帯がベースになって部下に対する統率力を磨く。第一回は、三河かたぎや若き日の苦難が家康の能力をどう育てていったのかを、司馬の洞察を元に探っていく。
■司馬遼太郎“覇王の家” (2)「律儀さ」が世を動かす
「家康は信長の下請会社の社長にあたる」ととらえる司馬遼太郎。下請会社を維持するためには徹底的に律儀であることを必要とする。それを貫いたのが家康だというのだ。
たとえ妻や息子を殺されようとも、命がけともいえる律儀さを貫いた家康。だがその律儀さは信長を動かし、戦国社会での世評にも家康という存在を刻み付けていく。そして「本能寺の変」での信長の死は家康の運命を大きく揺さぶるが、その後どんな天下を目指していくかを家康に練らせることになる。第二回は、奇跡に近い努力を要したと司馬から評された家康の律儀さの内実に迫っていく。
■司馬遼太郎“覇王の家” (3)人生最大の戦果はこうして生まれた
家康の名を戦国の世に轟かせた「小牧長久手の戦い」での大勝。10万という秀吉勢に対して、対する家康軍は1万5千。圧倒的不利の中家康が勝つことができたのはなぜか?
家康勝利の背景には「情報戦の巧みさ」「知的柔軟さ」があった。信玄亡き後、家康は甲信を併呑するが武田軍の人材を寛容に迎えいれる。また敵だったにもかかわらず信玄の戦法を心から崇拝し愚直なまでにコピーして活かす柔軟さ。情報戦の巧みさもあいまって家康は見事に劣勢を打開していく。そして、人生最大ともいえるこの戦果は、その後の家康の切り札となるのだ。第三回は、天下に轟(とどろ)いた家康の底力の秘密に迫っていく
■司馬遼太郎“覇王の家” (4)後世の基盤をどう築いたか
「覇王の家」では意外にもクライマックスといえる「関ヶ原の戦い」「大阪の陣」が一切書かれない。「一度書いたものは二度書かない」という司馬の作家倫理によるものだ。
司馬が注目するのは、最晩年の家康が後世の盤石な基盤づくりのための秘法を側近たちに告げるシーン。「譜代を冷遇し外様を優遇する」という一見不可解な策には家康ならではの企みがあった。安部さんはそこに書かれたかもしれない「家康の未来へのビジョン」を作家的想像力で補う。第四回は、司馬が書かなかったことや、逆に周到に描いたラストシーンを通して、家康がどんな国家像やビジョンをもっていたかを読み解く。
■司馬遼太郎“覇王の家” (1)「三河かたぎ」が生んだ能力
家康が歴史の表舞台へと躍り出ることができたのはなぜか。司馬は「たったひとつ、かれが三河に生まれた」ことだと述べる。それは一体どういう意味なのか?
家康を生んだ三河には中世的な深い人間的紐帯が色濃く残る。若き日、人質になる事を余儀なくされた家康。「苦難を共にする」という思いが、残された家臣団の更なる団結を生んだ。信玄のような戦術的天才も、信長のような俊敏な外交感覚もなかった家康だったが、こうした紐帯がベースになって部下に対する統率力を磨く。第一回は、三河かたぎや若き日の苦難が家康の能力をどう育てていったのかを、司馬の洞察を元に探っていく。
■司馬遼太郎“覇王の家” (2)「律儀さ」が世を動かす
「家康は信長の下請会社の社長にあたる」ととらえる司馬遼太郎。下請会社を維持するためには徹底的に律儀であることを必要とする。それを貫いたのが家康だというのだ。
たとえ妻や息子を殺されようとも、命がけともいえる律儀さを貫いた家康。だがその律儀さは信長を動かし、戦国社会での世評にも家康という存在を刻み付けていく。そして「本能寺の変」での信長の死は家康の運命を大きく揺さぶるが、その後どんな天下を目指していくかを家康に練らせることになる。第二回は、奇跡に近い努力を要したと司馬から評された家康の律儀さの内実に迫っていく。
■司馬遼太郎“覇王の家” (3)人生最大の戦果はこうして生まれた
家康の名を戦国の世に轟かせた「小牧長久手の戦い」での大勝。10万という秀吉勢に対して、対する家康軍は1万5千。圧倒的不利の中家康が勝つことができたのはなぜか?
家康勝利の背景には「情報戦の巧みさ」「知的柔軟さ」があった。信玄亡き後、家康は甲信を併呑するが武田軍の人材を寛容に迎えいれる。また敵だったにもかかわらず信玄の戦法を心から崇拝し愚直なまでにコピーして活かす柔軟さ。情報戦の巧みさもあいまって家康は見事に劣勢を打開していく。そして、人生最大ともいえるこの戦果は、その後の家康の切り札となるのだ。第三回は、天下に轟(とどろ)いた家康の底力の秘密に迫っていく
■司馬遼太郎“覇王の家” (4)後世の基盤をどう築いたか
「覇王の家」では意外にもクライマックスといえる「関ヶ原の戦い」「大阪の陣」が一切書かれない。「一度書いたものは二度書かない」という司馬の作家倫理によるものだ。
司馬が注目するのは、最晩年の家康が後世の盤石な基盤づくりのための秘法を側近たちに告げるシーン。「譜代を冷遇し外様を優遇する」という一見不可解な策には家康ならではの企みがあった。安部さんはそこに書かれたかもしれない「家康の未来へのビジョン」を作家的想像力で補う。第四回は、司馬が書かなかったことや、逆に周到に描いたラストシーンを通して、家康がどんな国家像やビジョンをもっていたかを読み解く。
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