「私は戦の傷跡だ。私は戦争がなければ生まれてこなかった。だからこそ私は平和のために役に立ちたい」
<盲目のテノール歌手 新垣 勉さん(62)>
2015年5月6日 東京新聞 不屈の詩 沖縄編
■生の苦しみ 救った歌 自分は「いくさの傷痕」
歌手生活三十五年を迎えた盲目のテノール歌手、新垣(あらがき)勉(六二)は、自らを「いくさの傷痕」と称する。
新垣はさとうきび畑のかなたに青い海が広がる沖縄県読谷村で、米軍基地に駐留していたメキシコ系の米国人と、現地の日本人女性との間に生まれた。
しかし、当人は故郷の美しい風景を一度も見たことがない。生後まもなく、助産師が誤って家畜の点眼薬を新垣の目にさした。そのことで光を失った。
一歳のとき、両親が離婚した。父は帰国。二十代前半だった母は再婚し、新垣は祖母に預けられた。実の母を「ねえね(姉)」、祖母を「おかあ(母)」と教えられて育った。
たまに訪れる実母は、新垣を抱き締めなかった。新垣は「情が移ってはいけないと思っていたのか。それでも、子ども心に本当の母だと気付いていた。なぜ子を捨てて再婚したのか。母を憎んだ」と話す。
祖母は懸命に新垣を育てた。目を治したい一心で、島中の眼科を訪ね歩いた。ときに「勉の目がよくなりますように」と、白濁した眼球をなめてくれた。
生活は苦しかった。大きな台風が来ると、トタン屋根が飛んだ。収入は祖母の生活保護のみだった。
そのころ新垣はジョンという犬を飼っていた。ある日、夕飯時になってもジョンの鳴き声がしない。祖母は言った。「あんたがいま、食べているよ」 自分は米軍人との間にできた子どもで、母はなく、目が見えず、貧しい。次第に自らの境遇を認識し、周囲を憎み始める。
当時、実母にこう叫んだことがあったという。「どうして僕が生まれたとき、殺してくれなかった!」。隣で祖母は泣いた。
村を歩いていて、祖母がふいに「ここが助産師の家だ」と言った。聞いた途端、怒りで体が震え、祖母は必死に新垣をなだめた。そんな祖母も、新垣が十四歳のとき、脳梗塞で倒れた。治療費はなく、祖母は自宅でただ寝かされていた。床擦れができ、皮膚が腐敗し異臭を放った。「あの臭いは、いまでも覚えている。タンパク質が腐る臭い。ハエのぶんぶん飛び回る音ばかりが聞こえた」
どうすることもできず、泣き続ける新垣に祖母はこう聞いた。「いなくなってもいいかあ」。伏せってから三カ月後、息を引き取った。五十九歳だった。
平日は那覇市内の盲学校の寮で過ごし、週末は読谷村の親類宅に身を寄せた。孤独な新垣は両親と助産師とそして父を沖縄に連れてきた戦争を憎んだ。
祖母の死から二年後、近所の井戸に飛び込もうとしたところを偶然、通り掛かった友人に止められた。
「寂しい気持ちが錯綜し、発作的に死のうとした」
生きることは苦しみだった。そんなとき、ラジオで祖母が好きだった賛美歌を耳にした。新垣の歌は、幼いころから近所の人びとの間で評判だった。銭湯ではしばしば入浴客のリクエストに応えて、美空ひばりや三橋美智也を歌った。
賛美歌を聴いた新垣は、ふと那覇市内の教会へ足を向けた。出迎えた牧師にいきなり「大人になったら、アメリカへ行って父を殺してやる」と言い放った。
牧師は何も言わず、ただただ涙を流した。「自分のために泣いてくれる人がいる」。新垣はせきを切ったように、自らの境遇を話し続けた。その後、牧師は新垣を引き取り、東京の大学の神学部に入学させた。
■憎悪を感謝に変えて 二度と世界に「傷」残さぬよう
牧師を志し、新垣の心は溶け始める。「聖書に出合っていなげれば、人をあやめていたかもしれない。だりど、そうしないように、神様が私から視力を奪ったのかもしれない」
神学の勉強の中で、聖歌隊の授業があった。指導者から「その声を使わないのはもったいない」と、レッスンを勧められた。
大学卒業間近、世界的なボイストレーナーと出会った。「日本人にはないあなたの明るい声は、神様とお父さまから与えられたプレゼントだ。たくさんの人をなぐさめるために使いなさい」。二十七歳のとき、ようやく新垣はテノール歌手への一歩を踏み出した。
先月十九日、新垣はコンサートのため、那覇市民会館を訪れた。「ここは私の原点です」。初めてコンサートを開いたのが、この会場だった。
まだ無名だった新垣に、地元の教会関係者らが支援の手を差し伸べ、コンサートが実現した。彼らが募金活動もしてくれたことで、新垣は三十四歳で音楽大に進学することができた。
この日、会場は千百人の観衆で満席だった。新垣はピアニストの先導で、舞台に立った。自らの半生を振り返り「おばあは歌が好きで、台所仕事の傍ら、よく歌ってました。ラジオに合わせて。おばあが私の最初の歌の先生です」と言い、祖母が好きだった「てぃんさぐぬ花」を歌った。
観衆は新垣を見詰め、歌に聞き入った。太平洋戦争末期の沖縄戦の悲劇を歌った「さとうきび畑」や「緑陰(こかげ)」が披露される。会場のあちこちに、涙をぬぐう観客の姿があった。
新垣は点字の歌詞を指でたどりながら、時折、観衆の脳天をつんざくような大声量を出す。十五曲を歌い切り、舞台袖に引いたが、割れんばかりの拍手と指笛が鳴りやまない。
やがて再び舞台に立った新垣は、最後の曲に賛美歌の名曲「アメイジンググレイス」を選んだ。かつては見えなかった神の恵みを、今では見いだすことができるという歌詞だ。
「人の役に立ってると分かると、明るくなれる。自分に与えられたいいものを発見して、生かし合う。それがハーモニーとなり、平和に続く」。これが新垣のモットーだ。両親と視力を失った新垣に与えられたものは、天賦の声だった。
コンサートの翌日、読谷村にある「さとうきび畑」の歌碑を訪ねた。
「幼いころ、さとうきびの製糖工場から漂う甘い香りと、潮のにおいがしていた。さわさわと、さとうきびの葉がこすれ合う音も聞こえていた。ここの空気は昔のままだ」
「気持ちがいい」と言いながら、目を見聞き、うれしそうな顔で「さとうきび畑」を口ずさんだ。
新垣は自らを「いくさの傷痕」だという。「私は戦争がなければ、生まれてこなかった。だからこそ、二度と傷痕を世界に残さないよう、人種や宗教、主義主張を超えた平和への思いを歌い続りたい」
自宅のピアノの上には、親類がとっておいてくれた父の写真が飾ってある。
新垣は「もう両親を恨みはしない。でも、六十年以上たっても、全部ふっきれて許せたとも言えない。人間の性かな。憎しみが消えないのなら、それは感謝に変えるしかない」とほほ笑む。両親から受け継いだラテンの血と沖縄の心。
父の写真を見ることはかなわないが、周囲は口をそろえてこう言うという。
「そっくりですよ」 (沢田千秋、文中敬称略)
壮絶な新垣さんの半生は奇跡だ。ここにも沖縄をだしにした米国と本土の身勝手さが透ける。いま、本土から沖縄の抵抗への連帯を耳にする。そのたび、沖縄の人びとの気持ちが気にかかる。どこか「いい気なもの」と思われてはいないか。沖縄からの共感をどうはぐくめるのか。連帯の二字の重さを考える。
「憎しみが消えないなら、感謝に変えるしかない」と語るテノール歌手の新垣勉さん
「さとうきび畑」11連の歌詞
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<盲目のテノール歌手 新垣 勉さん(62)>
2015年5月6日 東京新聞 不屈の詩 沖縄編
■生の苦しみ 救った歌 自分は「いくさの傷痕」
歌手生活三十五年を迎えた盲目のテノール歌手、新垣(あらがき)勉(六二)は、自らを「いくさの傷痕」と称する。
新垣はさとうきび畑のかなたに青い海が広がる沖縄県読谷村で、米軍基地に駐留していたメキシコ系の米国人と、現地の日本人女性との間に生まれた。
しかし、当人は故郷の美しい風景を一度も見たことがない。生後まもなく、助産師が誤って家畜の点眼薬を新垣の目にさした。そのことで光を失った。
一歳のとき、両親が離婚した。父は帰国。二十代前半だった母は再婚し、新垣は祖母に預けられた。実の母を「ねえね(姉)」、祖母を「おかあ(母)」と教えられて育った。
たまに訪れる実母は、新垣を抱き締めなかった。新垣は「情が移ってはいけないと思っていたのか。それでも、子ども心に本当の母だと気付いていた。なぜ子を捨てて再婚したのか。母を憎んだ」と話す。
祖母は懸命に新垣を育てた。目を治したい一心で、島中の眼科を訪ね歩いた。ときに「勉の目がよくなりますように」と、白濁した眼球をなめてくれた。
生活は苦しかった。大きな台風が来ると、トタン屋根が飛んだ。収入は祖母の生活保護のみだった。
そのころ新垣はジョンという犬を飼っていた。ある日、夕飯時になってもジョンの鳴き声がしない。祖母は言った。「あんたがいま、食べているよ」 自分は米軍人との間にできた子どもで、母はなく、目が見えず、貧しい。次第に自らの境遇を認識し、周囲を憎み始める。
当時、実母にこう叫んだことがあったという。「どうして僕が生まれたとき、殺してくれなかった!」。隣で祖母は泣いた。
村を歩いていて、祖母がふいに「ここが助産師の家だ」と言った。聞いた途端、怒りで体が震え、祖母は必死に新垣をなだめた。そんな祖母も、新垣が十四歳のとき、脳梗塞で倒れた。治療費はなく、祖母は自宅でただ寝かされていた。床擦れができ、皮膚が腐敗し異臭を放った。「あの臭いは、いまでも覚えている。タンパク質が腐る臭い。ハエのぶんぶん飛び回る音ばかりが聞こえた」
どうすることもできず、泣き続ける新垣に祖母はこう聞いた。「いなくなってもいいかあ」。伏せってから三カ月後、息を引き取った。五十九歳だった。
平日は那覇市内の盲学校の寮で過ごし、週末は読谷村の親類宅に身を寄せた。孤独な新垣は両親と助産師とそして父を沖縄に連れてきた戦争を憎んだ。
祖母の死から二年後、近所の井戸に飛び込もうとしたところを偶然、通り掛かった友人に止められた。
「寂しい気持ちが錯綜し、発作的に死のうとした」
生きることは苦しみだった。そんなとき、ラジオで祖母が好きだった賛美歌を耳にした。新垣の歌は、幼いころから近所の人びとの間で評判だった。銭湯ではしばしば入浴客のリクエストに応えて、美空ひばりや三橋美智也を歌った。
賛美歌を聴いた新垣は、ふと那覇市内の教会へ足を向けた。出迎えた牧師にいきなり「大人になったら、アメリカへ行って父を殺してやる」と言い放った。
牧師は何も言わず、ただただ涙を流した。「自分のために泣いてくれる人がいる」。新垣はせきを切ったように、自らの境遇を話し続けた。その後、牧師は新垣を引き取り、東京の大学の神学部に入学させた。
■憎悪を感謝に変えて 二度と世界に「傷」残さぬよう
牧師を志し、新垣の心は溶け始める。「聖書に出合っていなげれば、人をあやめていたかもしれない。だりど、そうしないように、神様が私から視力を奪ったのかもしれない」
神学の勉強の中で、聖歌隊の授業があった。指導者から「その声を使わないのはもったいない」と、レッスンを勧められた。
大学卒業間近、世界的なボイストレーナーと出会った。「日本人にはないあなたの明るい声は、神様とお父さまから与えられたプレゼントだ。たくさんの人をなぐさめるために使いなさい」。二十七歳のとき、ようやく新垣はテノール歌手への一歩を踏み出した。
先月十九日、新垣はコンサートのため、那覇市民会館を訪れた。「ここは私の原点です」。初めてコンサートを開いたのが、この会場だった。
まだ無名だった新垣に、地元の教会関係者らが支援の手を差し伸べ、コンサートが実現した。彼らが募金活動もしてくれたことで、新垣は三十四歳で音楽大に進学することができた。
この日、会場は千百人の観衆で満席だった。新垣はピアニストの先導で、舞台に立った。自らの半生を振り返り「おばあは歌が好きで、台所仕事の傍ら、よく歌ってました。ラジオに合わせて。おばあが私の最初の歌の先生です」と言い、祖母が好きだった「てぃんさぐぬ花」を歌った。
観衆は新垣を見詰め、歌に聞き入った。太平洋戦争末期の沖縄戦の悲劇を歌った「さとうきび畑」や「緑陰(こかげ)」が披露される。会場のあちこちに、涙をぬぐう観客の姿があった。
新垣は点字の歌詞を指でたどりながら、時折、観衆の脳天をつんざくような大声量を出す。十五曲を歌い切り、舞台袖に引いたが、割れんばかりの拍手と指笛が鳴りやまない。
やがて再び舞台に立った新垣は、最後の曲に賛美歌の名曲「アメイジンググレイス」を選んだ。かつては見えなかった神の恵みを、今では見いだすことができるという歌詞だ。
「人の役に立ってると分かると、明るくなれる。自分に与えられたいいものを発見して、生かし合う。それがハーモニーとなり、平和に続く」。これが新垣のモットーだ。両親と視力を失った新垣に与えられたものは、天賦の声だった。
コンサートの翌日、読谷村にある「さとうきび畑」の歌碑を訪ねた。
「幼いころ、さとうきびの製糖工場から漂う甘い香りと、潮のにおいがしていた。さわさわと、さとうきびの葉がこすれ合う音も聞こえていた。ここの空気は昔のままだ」
「気持ちがいい」と言いながら、目を見聞き、うれしそうな顔で「さとうきび畑」を口ずさんだ。
新垣は自らを「いくさの傷痕」だという。「私は戦争がなければ、生まれてこなかった。だからこそ、二度と傷痕を世界に残さないよう、人種や宗教、主義主張を超えた平和への思いを歌い続りたい」
自宅のピアノの上には、親類がとっておいてくれた父の写真が飾ってある。
新垣は「もう両親を恨みはしない。でも、六十年以上たっても、全部ふっきれて許せたとも言えない。人間の性かな。憎しみが消えないのなら、それは感謝に変えるしかない」とほほ笑む。両親から受け継いだラテンの血と沖縄の心。
父の写真を見ることはかなわないが、周囲は口をそろえてこう言うという。
「そっくりですよ」 (沢田千秋、文中敬称略)
壮絶な新垣さんの半生は奇跡だ。ここにも沖縄をだしにした米国と本土の身勝手さが透ける。いま、本土から沖縄の抵抗への連帯を耳にする。そのたび、沖縄の人びとの気持ちが気にかかる。どこか「いい気なもの」と思われてはいないか。沖縄からの共感をどうはぐくめるのか。連帯の二字の重さを考える。
「憎しみが消えないなら、感謝に変えるしかない」と語るテノール歌手の新垣勉さん
「さとうきび畑」11連の歌詞
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