おもいッきりDON!きょうは何の日「松任谷正隆が生まれた日」

  • 10 年前
昭和26年 松任谷正隆は、東京都杉並区で生まれた。

父親は銀行員。4歳の頃からクラシックピアノを習わされたが、練習はイヤで仕方がなかった。しかし、正隆は「絶対音感」が備わっていた子だった。

そんな特技を持った正隆はどんどん音楽の面白さにのめり込んでいく。そしてバンドを結成した。高校時代、アマチュアバンドコンテストに出場。審査員には、ミュージシャンの加藤和彦がいた。 

昭和46年、加藤和彦の誘いで、吉田拓郎のアルバム「人間なんて」のレコーディングに参加。そのアルバムに収められた曲「結婚しようよ」でバックバンドを勤め、バンジョーを弾くことになり、レコードジャケットに初めて名前が載った。20歳、プロとしてのデビューだった。

昭和48年には、細野晴臣らとバンド「キャラメル・ママ」を結成。レコードデビューを果たす一方で、スタジオミュージシャンとして活動する。しかし、思うようにいかず、音楽の道をあきらめかけていたそんな時、正隆は、ある女性シンガーソングライターの、ファーストアルバムのレコーディングに参加する。アルバムのタイトルは、「ひこうき雲」。

そのシンガーソングライターの名前は、荒井由実。松任谷のアレンジした「あの日にかえりたい」が大ヒット、荒井由実の人気を決定的なものにした。以後、殆どの曲のアレンジを手がける。二人の作り出す曲は、時代にマッチして、受け入れられた「とにかく、その才能に惚れた」と正隆は言う。その二人が出会ってから3年後、松任谷正隆は、荒井由実と結婚した。

その後、アレンジャーとして様々なアーティストの楽曲に携わるようになる。100組以上のアーティストの作品に携わった。2004年第55回紅白歌合戦には、ゆず 「栄光の架橋」のアレンジャーとして出場し、ピアノを演奏した。

数多くのアーティストの楽曲を手掛けて来た正隆は、「聞かせる」から「見せる」アレンジへと飛躍していく。そうして生み出したのが、「シャングリラ」だった。松任谷由実の曲を「見せるため」のコンサート。松任谷のアレンジャーとしての夢への挑戦だった。歌にあわせて繰り広げられるシンクロナイズドスイミング。そして、空中ブランコ。すべてが常識への挑戦だった。松任谷が平成11年から、3回に渡り公演した、史上最大のコンサート「シャングリラ」。総観客動員数は100万人を超えた。

松任谷正隆は今、自分の思いを次の世代に伝えるため、自らが校長をつとめる音楽学校で、新しい才能を伸ばす仕事を精力的にこなしている。

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