056號

  • 11 年前
(想起せよ昭和十二年七月七日)今にして思えば、盧溝橋畔一発の銃声は、東亜の旧秩序を破壊し、新秩序を建設する第一歩の響きであった。これを静かに回想すれば、最初、局地解決、不拡大方針をもって臨んだ我が国の誠意もむなしく、蒋政権は英米の魔手に操られて日刻々と切迫。

(大山事件突発)8月9日、大山海軍大尉、暴戻支那軍の銃弾に倒る。しかも我はよくしのびがたきをしのび、抑えがたきを抑えて、日を送ること数日。支那側は自ら求めて、上海陸戦隊に戦いを挑むや、帝国政府は防支膺懲(ようちょう)の重大決意を表明。矢はついに弦を放れた。世界列強の注目を集めて、ここに壮烈、上海攻略戦の火蓋(ひぶた)は切って落とされた。
(聞き取り困難)呉淞(ウースン)敵前上陸をはじめ、大場鎮(だいじょうちん)、江湾鎮(こうわんちん)、廟行鎮(びょうこうちん)と、上海外郭の堅塁を次々に突破し、秋10月、閘北(ざほく)の激闘を最後に、外国権益の錯そうする国際都市上海の、困難なる攻略戦を終わる。

これより先、我が海軍航空隊は折からの荒天を冒して、渡洋爆撃の壮途に上る。生還元より期すべからず。将兵等しく決死報国の誓いを胸に、鵬翼を連ねて怒濤(どとう)荒れ狂う支那海を越え、長駆して敵の首都、南京を空襲。

今だ明けやらぬ東シナ海上。突如として杭州湾頭を圧する、大輸送船団の群れ。これぞ覆面の猛将、柳川将軍の率いる親衛兵団にして前進上(要確認)の敵前上陸に成功。時に昭和12年11月5日。敵は日軍百万襲来の声に怯えて戦わずして敗走。翌6日には早くも黄浦江岸(こうほくこうがん)に進出。
かくて蒋政権の牙城(がじょう)、南京目指して怒濤(どとう)の如(ごと)き進撃を開始した無敵皇軍は、輝く日章旗を先頭に、たちまちに蘇州を抜き無錫を陥れ、常州、広徳を突破して、断末魔の砲火、敵都南京を終点と期するべく、決死の我が部隊は相次いで東華門を破り、中山門を乗り越えて城内に突入。

敵首都、ついに落ち、戦火大陸に起こってよりわずかに5ヶ月、日章旗は燦(さん)として南京城頭に翻った。
12月17日、堂々の南京入城式を挙行。松井最高指揮官は悠々駒を進めて、忠勇なる将士を閲兵。

首都南京を失い、支那民衆に塗炭(とたん)の責め苦を負わせながら、なおも抗戦の迷夢より覚めざる蒋政権。これに対し、東洋永遠の平和を確立すべく、1月11日歴史的御前会議が開かれ、かしこくも閑院、伏見両幕僚長宮殿下をはじめ奉り、近衛首相以下宮中に参内。かくて不動の最高方針は決定され、反省の色なき蒋政権を極東より追放すべく風見内閣書記官長より内外に声明。
≪風見内閣書記官長≫
「帝国政府は、爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず。」

徐州へ徐州へ。鋼鉄部隊はいわゆる蒋介石ライン突破作戦を強行して、李宗仁の指揮する40万の大軍が防衛する台児荘(たいじそう)陣地を粉砕。ここに徐州平原を血潮に染めた強烈無双の大会戦の幕は切って落とされた。
世界環視の内に大作戦を終わって、寺内、畑両最高指揮官は5月25日、新戦場(要確認)に劇的会見を行う。

聖戦ここに1周年。蘆溝橋に端を発して、早くも北京、大同、大原、上海を収め、全支沿岸の航行手段(要確認)を敢行。南京、青島、芝罘、威海衛、厦門、徐州、安慶と日章旗翻る。

昭和13年10月12日未明。我が南支上陸部隊は、突如バイアス湾北岸に奇襲、敵前上陸を決行して敵を茫然たらしめる。たちまち恵州を攻略し、増城を制圧。疾風枯葉を巻くが如(ごと)く21日広東に突入。ここに蒋政権が力と頼む南支輸送路の大動脈は切断されて、気息奄々(きそくえんえん)たるものあり。

夏8月。縮小勾配の線に隊形を整えた皇軍は、いよいよ武漢攻略の壮途につき、湖口、ケンコウと揚子江を遡るとともに、江北は大別山の天嶮(てんけん)を冒し、江南、ヨウシン、徳安の堅陣をほふり、白崇禧(はくすうき)沈静麾下(きか)75万人の大軍に致命的打撃を与えて、10月27日武漢三鎮も皇軍の威武に屈服。

越えて2月10日。南支海南島に軍を進めた我が陸海軍部隊は、同日、海口、瓊山(けいざん)の要衝を攻略して、蒋政権をして顔色なからしめた。
一方3月20日。修水渡河に火蓋(ひぶた)をきった皇軍は、神速(しんそく)たちまちコウシンを陥れ、はんにごじょう(要確認)を蹂躙(じゅうりん)して、27日南昌に突入。
かくて(音声中断)も終わり、敵の4月攻勢を反撃して、占領地区、我が本土の2倍以上に達す。

越えて昭和15年。光栄の2600年を迎え、前線銃後一体となって長期戦に驀進(ばくしん)し、北支軍は1月末、酷寒、肌を刺すオルドスの大平原に大殲滅(せんめつ)戦を展開。
続いて2月3日。敵最後の拠点、五原に寒風をついて堂々と入城。

この頃より敵はついに抗日軍再建を断念。ゲリラ戦術へと転向すれば、我が軍は敵の心臓部を一挙にたたき潰(つぶ)すべく、銀翼を連ねて遠く重慶を空襲。

一方、王精衛氏は南中北支の政権を合体して、ここに新中央政権の樹立を宣言。3月30日、新中国国民政府誕生し、東亜の歴史はここに和平第一歩の輝かしい第1ページを開いた。

しかも我が国はあくまで蒋政権撃滅の手を緩めず、各地のゲリラ戦術に対抗し、6月堂々敵の要衝、宜昌を攻略。
かくて第3年をかえりみるに、戦線の長さ実に4600キロ。占領地区内は建設進展目覚ましく、全滅(ぜんめつ)蒋政権の苦悩、いよいよ覆い難し。

このとき、欧州戦乱は拡大の一路をたどり、これに対応する如(ごと)く、7月22日、第2次近衛内閣成立。国内新体制の確立と東亜共栄圏の理想に邁進(まいしん)。挙国一致、総力戦への熱情は大政翼賛運動の展開とともにいよいよその度合いを加え、10月12日全国代表一堂に会し、大政翼賛、臣道実践の具体的実施を協議した。

徹底的膺懲(ようちょう)を期して立った皇軍は、重慶への道を次々に粉砕すれば、敵はもっぱら仏印ビルマ等の第三国ルートを利用するに至り。我が軍は9月23日、幾度の炎熱を冒して、陸海空より仏印に進駐。厳重にその輸送路を遮断するに至った。

秋10月、さらにビルマの輸送路を切断すべく、我が荒鷲は遠くビルマ国境にて、見事高架橋に命中弾を浴びせ、ビルマルートをして半身不随たらしめた。


続いて11月30日。新生国民政府との間に、日華基本条約締結され、また日満支協力して東亜の安定平和に相提携して進むべき盟約は交わされた。

また帝国は、泰・仏印国境紛争調停に乗り出し、3月11日東京において平和条約に調印。かくて帝国は東亜圏内における指導的地位を名実ともに確保した。
他方、大陸においては中支の残敵を追い、北支中原に巧妙なる捕捉大殲滅(せんめつ)戦を展開。南支沿岸の輸送路破壊に続いて、福建省に行動して、省城福建を陥れ、海に臨む一切の地域は皇軍の完全なる制圧の下に置かれるに至った。
重慶に最後のとどめをと決起した我が空軍は、あるときは嶋田司令長官の激励を胸に畳み、またあるときは銃後の熱誠を背後に勇躍征途につく、かくて瀕死(ひんし)の重慶は、我が荒鷲のために十数度にわたって連続爆撃を受け、もはやほとんど抗戦都市としての面影を失うに至った。

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