フクシマを歩いて / 徐京植 私にとっての3・11

  • 12 年前
緊急時避難準備区域に指定された南相馬市では、耕作禁止の田でひとり草を刈る農民や、隣近所が「自主避難」を始める中で介護が必要な妻とともに動こうとしなかったスペイン思想研究者に出会います。
小学校の校庭汚染が大きくメディアにとりあげられた郡山市では、報道にあらわれてこない朝鮮学校の子供たちの今、そして、福島に「根」をおろして暮らす韓国・朝鮮人の歴史(郡山市郊外の高玉金鉱山)などを訪ねます。

この原発事故は、日本の社会の何をさらけ出して来たのか―。

今、私たちに問われていることは何なのか―。
徐京植さんへのロングインタビュー。

 「根こぎ」という言葉があって…、ちょっと聞き慣れないかもしれないけど…、つまり一個の根を下ろしている植物を徹底的に抜いちゃうというんです。もうその生命、生存の基盤そのものを破壊すると…。で、この「根こぎ」ということが人間に対して行われる、人間が人間に対して、人間を根こぎにするということがある、ということですね。戦争や植民地支配やその他で、世界中で多くの人々が根を抜かれてさまよっているわけですね。ディアスポラ、難民…、パレスチナの人々…、まさにそうですね。
 その人々が経験している痛みをですねえ、何か、数量化したり物量化して語るわけですね。それだけで語れるようなものじゃないんだ、ってことが、放射能という、核という、もう一つのこういう現在の経験から、私たちが考察してみるべき問題だと、私はそういうふうに思っているわけです。

 あの日の経験ということを、その後も何回も想起するんですけど、これはある意味で象徴的だと思いますが、韓国から知人といいますか研究者が日本に来ておりまして、その方は日本に来た翌日に地震に遭遇したわけですね。地震の翌日12日にうちで、私の自宅で食事をするように招待してたんですけど、それをちょっと時間をずらしてやはり来ていただくと。その方もずいぶん苦労されたんですけど、とにかくおいでになりました。で、私たちの手料理で食事をしているときに、「福島で水素爆発」というニュースが入ってですね。テレビの画面でですね、原子力発電所が爆発する場面を見ていたわけですね。

<根こぎと全体主義>  徐京植さんの言葉が書き起こしされている
http://bit.ly/JVBTLJ

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