大橋直久マナー教室~衣替えの歴史

  • 5 年前
大橋直久マナー教室~衣替えの歴史


11月も中旬となり、秋の深まりを覚えます。10月に衣替えの季節を迎えたかと思っていたら、過日、富士山に冠雪の便りがあったし、木枯らしも吹きました。早くも冬は目前となりました。

現在の衣替えは、1873(明治6)年の政府による太陽暦の導入時に設定されました。6月1日から9月30日までを夏服、10月1日か5月31日までが冬服、という区分です。これが太政官や警察、学生、軍隊などを通じて日本中に広まり、現在に至ります。

衣替えは、平安時代の文献にあらわれるのが最初で、「更衣(こうい)」と記されることもあります。現在の区分とは異なり、旧暦4月1日と10月1日(現在の暦では1カ月前後、遅くなる)でした。

これは古代の朝廷の歳事や習俗が、中国の二十四節気から派生したものであったからです。その名残は、3月3日のひな祭りや5月5日の端午節句などに現在も見られます。

平安時代の朝廷に起源を求められる衣替えは、現代ではおもに衣服に名残をとどめています。しかし平安時代のそれは、室内の調度や家具にまでおよぶものでした。

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平安時代の朝廷の旧暦10月1日の衣替えをみてましょう。調度・家具類の衣替えは、儀式・儀礼の式場設営や、内裏内の掃除などに従事する掃部寮(かんもりのつかさ)が担当しました。内裏内の殿舎の壁代(かべしろ)とよばれる間仕切りを替えます。夏料(なつのりょう)(夏に用いるものの意)であった軽くて風を通しやすい帷子(かたびら)(同じ読みで「片枚」とも書き、裏地のない単物のこと)の仕立てのものから、裏地のある袷(あわせ)の仕立ての冬料(ふゆのりょう)に替えます。天皇の座所である御帳台(みちょうだい)の帳(とばり)や、敷物などの座具も同様に冬料に替え、畳や灯籠(とうろう)に提げた緒などは新調しました。

夏から冬へ、見た目もあたたかな風情となるよう変更したのでしょうか。衣服の管轄は中務(なかつかさ)省に所属して、貴重な物品類の管理や天皇の衣服を準備する内蔵寮(くらのつかさ)が担当しました。冬料として、裏地のついた肌触りがあたたかで保温性の高い衣服や重ね着のための衣服を準備しました。こうした朝廷での衣料や屋内の調度の衣替えは、貴族などにも普及し、同じくおこなわれました。

中世以降、武士が歴史の表舞台に出てくると、彼らもこの衣替えを継受(けいじゅ)します。武家の儀礼では、衣服の衣替えの頻度が目につきます。江戸幕府の定めたところによれば、旧暦4月1日より5月4日が袷(五月更衣〈さつきのこうい〉)、5月5日から8月末が帷子、9月1日から9月8日が袷、9月9日から翌年3月末までが綿入れや袷小袖とされました。

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現在では地球温暖化が進み、天候異変が相次ぎ、四季の巡りも不順になるなか、これまで見てきたような衣替えはその説得力を失いつつあります。それでも衣替えの習慣がなくならないのは、隣国から受け継いだものであるにせよ、長い日本の歴史のなかでその風土に合わせて育んできた季節感や四季の移ろいを大切にしようという想いがあるからでしょう。

この衣替えの習慣は、衣服の素材である布地・生地や組み合わせる衣服の多様性を生み出しました。衣服の歴史を考えるうえで欠くことのできない習慣なのですが、今後はどうなってしまうのだろうと思います。

 
参考:https://www.socialvalue-community.com/