事故や病気のため「意識不明の重体」となった人たち。自力で移動や食事が出来ず、意思表示が出来ないなどの状態が3か月以上続く場合、「遷延性意識障害」といわれます。その数は全国で5万人以上ともいわれます。こうした状態で生き続けることが本人にとってどんな意味があるのでしょうか?また、家族や医療・介護関係者にとって、寄り添い続ける意味とは何なのでしょうか?「安楽死」「尊厳死」などの議論の対象とされてきました。
そんな中、「遷延性意識障害」の人たちとの関わりから得られるものを大切に生活を共にし、人生を歩んでいる人たちがいます。「たとえ反応がないように見えても、自分らしい人生を歩み続けている」と考えています。
日本でも世界でも生と死の境界をめぐる議論が活発な今、施設や自宅で「遷延性意識障害」を生きる人々と、家族、職員との日常を通して、「生きる」とはどういうことなのでしょうか?その意味を見つめます。
【23年間植物状態と思われていた男性に実はずっと意識があったことが判明】GIGAZINE
1983年11月に自動車事故にあって以来2006年まで昏睡状態にあると信じられていたベルギー人の男性が、実はその23年間ずっと意識があったことが明らかになりました。
事故当時20歳だったRom Houben氏は現在46歳、身体は麻痺(まひ)状態にあるのですが理学療法によりわずかながら運動機能を回復し、コミュニケーション用の特別なコンピューターにより忍耐の23年間を語っています。(以下リンク先)
http://gigazine.net/news/20091125_coma/
【遷延性意識障害からの回復例(参考)】
http://www6.plala.or.jp/brainx/recovery.htm
【最後まであきらめずに努力してくれる人の存在を確認したとき、私はこの地獄から救われました】
*紙屋 克子:慢性経過をたどる患者の安全・安楽とQOLにおける看護師の役割 意識障害患者の看護体験から、日本腎不全看護学会誌、11(1)、11-14、2009
71歳男性、10年前に進行性核上性麻痺と診断、硬膜下血腫により意識障害となり、術後胃瘻造設。
温浴刺激療法を行い、3週目に仮面様顔貌から笑顔がみられるようになった。経口摂取は禁止されていたが、食べることを目的とした口腔訓練を行なった。歯科検診をきっかけに含嗽ができるようになり、水も飲めるようになった。さらに経口摂取の訓練を行い、バナナやリンゴなどの経口摂取の確立ができた。肺活量も上がり、発声もよくなった。
この患者に看護を学ぶ学生へのメッセージを依頼したところ、次のような言葉をいただいた。「水一滴自分の口にいれてもらえなかったとき、私は地獄の日々を送りました。私のために、最後まであきらめずに努力してくれる人の存在を確認したとき、私はこの地獄から救われました」
看護師は患者に変化を起こそうとして看護を行なうが、意識障害の患者にいつも期待するような変化が起こるとは限らない。しかし、患者の最も身近にいる看護師が、患者のQOLを少しでも向上させようと努力をし、それを患者が感じ取った時、看護師は、患者と同じ目標に向かってともに歩く同伴者として、患者に勇気を与えることができると考えている。
上記の71歳男性とみられるケースが、単行本:山元 加津子編著:僕のうしろに道はできる 植物状態からの回復方法(三五館)のp13~p15に掲載されています(以下)
*紙屋 克子(筑波大学名誉教授):意識障害の患者さん、そして家族の皆さんと歩んできた道、8-18、2012
大企業の部長職にあって、技術開発などのリーダーシップをとってこられた方が、脳血管障害で一年以上も意識が回復しないということから、私たちのプロジェクトチームに依頼がありました。
この高橋さんは、新しい看護プログラムで、毎日、日を追って多くの改善がみられたので、お見舞いに来る家族も、職場の方も、みなさんが驚いて、「どうして、こんなにも毎日変わっていくのですか、まるでマジックを見ているようです」とおっしゃったほどでした。また、脳の病変部位の特徴から、喜怒哀楽を表情に表せないため、「仮面様表情」と言われる症状が出ていましたが、プログラムで表情筋の硬さがとれると、穏やかな笑顔も見せてくださるようになったのです。
看護学部の学生が、実習で高橋さんを担当させていただいていましたが、実習が終わる頃には、お話ができるまでに回復されたので、「将来、看護師を目指している学生なので、何かメッセージをお願いします」と依頼しました。
高橋さんは、学生とかんg師を前に、ゆっくりと静かに話し始めました。
「実は、僕は運び込まれた大学病院での手術後、2週間ぐらいから意識がありました。最初に気がついたとき、天井が見えて『ああ、ここは病院だ』ということがわかった」そうです。高橋さんは、もともとの病気があって、その病状の進行によっては、さまざまな事態が起こる可能性も医師から説明されていたので、「ああ、いよいよ、来るべきことが起きたんだな」と思ったそうです。
やがて看護師さんが来たので「看護師さん」と声をかけようとしたのですが、声が出ないだけでなく、身体も動かない。次にドクターが来たので、「ドクター」と呼んだのですが、また同じことでした。それで、彼は、「ああ、麻酔が効いているんだ。麻酔ならばそのうちさめて、いずれ、声も出るし身体も動く」と考えたそうです。
ところが、その後も看護師が出人りし、ドクターも来て自分に話しかけるので、応えようとするのですが、いっこうに身体が動かない、声も出ない。そうこうしているうちに、激しい空腹が襲ってきたので、「ああ、こんなにお腹がすいたということは、手術が終わってだいぶん時間が経っているはず、それなら看護師さんがそろそろ、食事を持ってくるだろうな」と思い、待っていると、看護師さんが、何かの容器を足下のスタンドに掛けていったそうです。その容器からはチューブが下がっていたので、たどってみると経管流動食の管がお腹につながっていたというのです。
高橋さんは、それも、短期的な処置だと、まだ楽観視していたそうです。それから、次の日に奥様が来たので、話しかけようとしたのですが、やっぱり声が出ない、身体が動かない・・・・・・これはいよいよ変だと、少し切迫した感じに襲われたそうです。それからは、食事も水も、何もかもがすべて管から入り、自分の口からは水一滴さえ、人ることはなかったのです。
高橋さんは、自分に意識があるということを伝えようとして、なんとか声を出そう、身体を動かそうと必死にもがいたけれど、誰も気がついてくれない。そして、「ああ、自分は意識障害の患者として扱われているんだな」と、わかったというのです。
それでも、一生懸命努力したら、身体もそのうち動くだろうと思っていたのですが、だんだん時間が過ぎて、何ヵ月も経ってきたとき、ついに、「自分は植物人間と思われているんだ」ということに気がつかれたそうです。
(以下リンク先)
http://www6.plala.or.jp/brainx/rec
そんな中、「遷延性意識障害」の人たちとの関わりから得られるものを大切に生活を共にし、人生を歩んでいる人たちがいます。「たとえ反応がないように見えても、自分らしい人生を歩み続けている」と考えています。
日本でも世界でも生と死の境界をめぐる議論が活発な今、施設や自宅で「遷延性意識障害」を生きる人々と、家族、職員との日常を通して、「生きる」とはどういうことなのでしょうか?その意味を見つめます。
【23年間植物状態と思われていた男性に実はずっと意識があったことが判明】GIGAZINE
1983年11月に自動車事故にあって以来2006年まで昏睡状態にあると信じられていたベルギー人の男性が、実はその23年間ずっと意識があったことが明らかになりました。
事故当時20歳だったRom Houben氏は現在46歳、身体は麻痺(まひ)状態にあるのですが理学療法によりわずかながら運動機能を回復し、コミュニケーション用の特別なコンピューターにより忍耐の23年間を語っています。(以下リンク先)
http://gigazine.net/news/20091125_coma/
【遷延性意識障害からの回復例(参考)】
http://www6.plala.or.jp/brainx/recovery.htm
【最後まであきらめずに努力してくれる人の存在を確認したとき、私はこの地獄から救われました】
*紙屋 克子:慢性経過をたどる患者の安全・安楽とQOLにおける看護師の役割 意識障害患者の看護体験から、日本腎不全看護学会誌、11(1)、11-14、2009
71歳男性、10年前に進行性核上性麻痺と診断、硬膜下血腫により意識障害となり、術後胃瘻造設。
温浴刺激療法を行い、3週目に仮面様顔貌から笑顔がみられるようになった。経口摂取は禁止されていたが、食べることを目的とした口腔訓練を行なった。歯科検診をきっかけに含嗽ができるようになり、水も飲めるようになった。さらに経口摂取の訓練を行い、バナナやリンゴなどの経口摂取の確立ができた。肺活量も上がり、発声もよくなった。
この患者に看護を学ぶ学生へのメッセージを依頼したところ、次のような言葉をいただいた。「水一滴自分の口にいれてもらえなかったとき、私は地獄の日々を送りました。私のために、最後まであきらめずに努力してくれる人の存在を確認したとき、私はこの地獄から救われました」
看護師は患者に変化を起こそうとして看護を行なうが、意識障害の患者にいつも期待するような変化が起こるとは限らない。しかし、患者の最も身近にいる看護師が、患者のQOLを少しでも向上させようと努力をし、それを患者が感じ取った時、看護師は、患者と同じ目標に向かってともに歩く同伴者として、患者に勇気を与えることができると考えている。
上記の71歳男性とみられるケースが、単行本:山元 加津子編著:僕のうしろに道はできる 植物状態からの回復方法(三五館)のp13~p15に掲載されています(以下)
*紙屋 克子(筑波大学名誉教授):意識障害の患者さん、そして家族の皆さんと歩んできた道、8-18、2012
大企業の部長職にあって、技術開発などのリーダーシップをとってこられた方が、脳血管障害で一年以上も意識が回復しないということから、私たちのプロジェクトチームに依頼がありました。
この高橋さんは、新しい看護プログラムで、毎日、日を追って多くの改善がみられたので、お見舞いに来る家族も、職場の方も、みなさんが驚いて、「どうして、こんなにも毎日変わっていくのですか、まるでマジックを見ているようです」とおっしゃったほどでした。また、脳の病変部位の特徴から、喜怒哀楽を表情に表せないため、「仮面様表情」と言われる症状が出ていましたが、プログラムで表情筋の硬さがとれると、穏やかな笑顔も見せてくださるようになったのです。
看護学部の学生が、実習で高橋さんを担当させていただいていましたが、実習が終わる頃には、お話ができるまでに回復されたので、「将来、看護師を目指している学生なので、何かメッセージをお願いします」と依頼しました。
高橋さんは、学生とかんg師を前に、ゆっくりと静かに話し始めました。
「実は、僕は運び込まれた大学病院での手術後、2週間ぐらいから意識がありました。最初に気がついたとき、天井が見えて『ああ、ここは病院だ』ということがわかった」そうです。高橋さんは、もともとの病気があって、その病状の進行によっては、さまざまな事態が起こる可能性も医師から説明されていたので、「ああ、いよいよ、来るべきことが起きたんだな」と思ったそうです。
やがて看護師さんが来たので「看護師さん」と声をかけようとしたのですが、声が出ないだけでなく、身体も動かない。次にドクターが来たので、「ドクター」と呼んだのですが、また同じことでした。それで、彼は、「ああ、麻酔が効いているんだ。麻酔ならばそのうちさめて、いずれ、声も出るし身体も動く」と考えたそうです。
ところが、その後も看護師が出人りし、ドクターも来て自分に話しかけるので、応えようとするのですが、いっこうに身体が動かない、声も出ない。そうこうしているうちに、激しい空腹が襲ってきたので、「ああ、こんなにお腹がすいたということは、手術が終わってだいぶん時間が経っているはず、それなら看護師さんがそろそろ、食事を持ってくるだろうな」と思い、待っていると、看護師さんが、何かの容器を足下のスタンドに掛けていったそうです。その容器からはチューブが下がっていたので、たどってみると経管流動食の管がお腹につながっていたというのです。
高橋さんは、それも、短期的な処置だと、まだ楽観視していたそうです。それから、次の日に奥様が来たので、話しかけようとしたのですが、やっぱり声が出ない、身体が動かない・・・・・・これはいよいよ変だと、少し切迫した感じに襲われたそうです。それからは、食事も水も、何もかもがすべて管から入り、自分の口からは水一滴さえ、人ることはなかったのです。
高橋さんは、自分に意識があるということを伝えようとして、なんとか声を出そう、身体を動かそうと必死にもがいたけれど、誰も気がついてくれない。そして、「ああ、自分は意識障害の患者として扱われているんだな」と、わかったというのです。
それでも、一生懸命努力したら、身体もそのうち動くだろうと思っていたのですが、だんだん時間が過ぎて、何ヵ月も経ってきたとき、ついに、「自分は植物人間と思われているんだ」ということに気がつかれたそうです。
(以下リンク先)
http://www6.plala.or.jp/brainx/rec
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