20140811元海軍特攻隊員の男性に、今の若者へ託す願いを聞きました。 福島

  • 10 年前
2度の出撃を経験した元海軍特攻隊員の男性。青春時代を戦争の最前線で過ごした男性が、今の若者に託す願いについて、話を聞きました。

福島・郡山市に住む増戸興助さん(91)は、沖縄特攻を2度経験し、生き残った元特攻隊員。
増戸さんは「特攻に対して、恐怖とか、そういうものはなかった。全然なかった。特攻っていうのは、当たり前のことなんだから、当時にしては」と話した。
増戸さんは18歳で 山口県の岩国海軍航空隊に入隊。
その後 基地を転々とし、終戦の年(1945年)、21歳の時に、千葉県の香取基地で「彗星(すいせい)急降下爆撃隊」の隊員となった。
任務は、連合国軍の沖縄方面への進攻を阻止するため、戦闘機「彗星」で、敵の艦艇へ体当たりをすること。
それ以外の詳細は、知らされなかった。
増戸さんは「飛行場の少佐の人、その人が『ただ今から、特攻で出撃する。訓練の成果を発揮して、勇猛果敢に敵の艦艇に体当たりしろ。成功を祈る』と。だいたい、それが決まり文句だった」と話した。
増戸さんは、鹿児島県の第1国分基地を、沖縄に向けて出撃。
しかし、誘導する仲間の戦闘機が撃墜されたため、1度は引き返した。
2度目は、奄美大島付近で、2機のアメリカ軍機と遭遇し、激しい空中戦の末、鹿児島県の喜界島(きかいじま)へ不時着した。
同年代の戦友が次々と戦死していく中、死ぬことへの恐怖は、全くなかったという。
増戸さんは「きょうで終わりだな、これで終わりだなっていう考えくらいで、何も別に、これといった考えはなかった。そんな悲壮感なんていうのは、全然なかった」と話した。
そして、迎えた終戦。
増戸さんは、当時の体験をまとめた著書の中で、「玉音放送」を聞いた時の感想を、「その瞬間、特攻の気概がいっぺんに消え去り、俗人に戻って、あらためて生に執着する欲望が芽生えてきた。とすると、特攻で戦死した戦友たちの死は、はたして何だったのか、かける言葉がない」とつづっている。
陸上自衛隊郡山駐屯地には、県内出身の特攻隊員の遺影や、遺書などが保管されている。
特攻隊作戦によって、日本全体で6,000人近い若者が、尊い命を落とした。
戦後、亡くなった戦友の家族を訪問した増戸さん。
その時、かけられた言葉が、忘れられないという。
増戸さんは「『増戸さんみたいに、特攻に行って戻った人ってあるのかい』って。死んだ人に、すまないと思った。同じ特攻に行って、片方は生きている、片方は死んでいる」と話した。
終戦から69年、91歳になった今も、戦争の悲劇を忘れることはない。
増戸さんは「一番は死ぬこと、若い者が亡くなること。これが、一番悲劇だと思います、戦争の。全てが戦時色で暮らしていた。今の人たちは、そういうのがない。自由意思によって、何でもできるわけだ」と話した。
戦禍を生き抜いた特攻隊員。
「戦争のない世の中」こそが、今の若い世代に託す願いとなっている。 (8/11 20:09)